• 体験レポート
  • ライフ&カルチャー
  • 州誕生50周年記念
  • インタビュー

日本人の海外旅行時代の幕開け-ハワイの歴史(4)

ハワイ州誕生50周年記念特集 ハワイの歴史 第4回
日本人の海外旅行時代の幕開けと「憧れのハワイ」

 0122_011.jpg 東京オリンピック開催を半年後に控えた1964年4月1日、日本政府は観光目的の海外渡航の自由化を認めた。その1週間後、ハワイへの初の「団体観光旅行団」が出発。旅行代金は当時の月収の6倍ほどかかり、ハワイはやはり「一生に一度は行ってみたい夢の島」であったが、1970年に「ジャンボジェット」が大量送客を可能とし、ハワイは「高嶺の花」から「手を伸ばせば実現できる憧れ」になった。その後、ハワイは日本人にとって「一番行きたい外国」として輝き続ける。そんなブームを作った当時のハワイ旅行は近年のトレンドと重なる傾向があり、意外なヒントにもなるだろう。(取材:宮田麻未)

 

ハワイから開かれた世界への扉 

0122_021.jpg 日本の海外渡航自由化は1964年のこと。しかし、1960年発表の「貿易為替自由化大綱」を受けて渡航自由化への見通しが見え、これにあわせるように海外旅行への期待が沸きたっていった。それを象徴するのが、1961年にオンエアされたサントリーウィスキーのテレビCM「トリスを飲んでハワイへ行こう!」だ。8日間のハワイ旅行資金の積み立て預金証書が100名に当たるというもので、海外旅行が解禁になり次第ハワイへ行けるというタイムリーな賞品。アロハを着た同ウィスキーのCMキャラクター「アンクルトリス」が椰子の木陰で踊るアニメと、ワイキキビーチやサーフィンの実写の風景などが映し出され、当時の日本人の「憧れのハワイ」を凝縮した名CMだ。

 パンアメリカン航空の協賛による『兼高かおるの世界の旅』の放送も1959年末に開始。海外旅行自由化をいち早く見据えたもので、人々の憧れをかきたてた。また、日本航空(JL)は「ハワイへのご招待。10問正解して、夢のハワイへ行きましょう!」というキャッチコピーで大人気となった「アップダウンクイズ」(1963年~85年放送)に協賛。「夢のハワイ」という言葉が人々の思いを象徴していたといってよいだろう。

 1961年には映画『ブルーハワイ』が日本でも公開され、大ヒット。63年には加山雄三主演の「若大将シリーズ」第4弾が『ハワイの若大将』が撮影された。加山扮する主人公が、ワイキキの浜辺でウクレレを弾いたり、サーフィンに挑戦したりするシーンが続く。豪華なヨット、ポリネシアンショー、真っ赤なスポーツカーなど、当時の「夢のハワイ」のエッセンスを詰め込んだこの映画は、推定観客数295万人という驚異的なヒットとなった。日本人にとっての海外旅行は、ハワイと直結び付く形で幕を開けることになったのだ。

 

おみやげはパイナップル!戦後初のハワイツアー

0122_031.jpg 1964年4月1日、ついに旅行目的の海外渡航が解禁。その1週間後、羽田から飛び立ったパンナム機には、初のハワイへの団体ツアー客23名と添乗員2名が乗り込んでいた。この「第一銀行ハワイ観光団」は、3年前から銀行に毎月1万円ずつ旅行代金を積み立てしていた主催旅行で、旅行代金は36万4000円。当時のサラリーマンの初任給は約2万円、平均月収が6万円程度だった時代だ。羽田空港での見送りに参加者の親類縁者などが数百人詰めかけたばかりでなく、ホノルル空港到着時も「日本からの戦後初の観光客」ということで、報道陣がどっと詰めかける賑わいを見せたという。

 このハワイツアーは、オアフ島、カウアイ島、マウイ島、ハワイ島の4島のみどころを7泊9日で巡るという、かなりの強行スケジュール。そしてハワイ旅行の土産は、当時日本では非常に高価だったパイナップル。100個以上も積み込まれたそうだ。

 1964年、JLは「ジャルパック」ブランドのツアーの販売を開始し、1968年には日本交通公社と日本通運が共同で「ルック」ブランドのツアーを発売。日本人の海外旅行ツアーはハワイを中心に、成長期に入った。しかし、当時の現地オペレーターは外資企業がほとんどで、高額の手配料を払って手配を委託するしかなかった。日本の海外旅行業界の拡大は日本企業のオペレーターとしての成長、添乗員の経験積み重ねなどを含めて進んでいったものなのだ。こうした努力と1965年末から1970年の夏頃まで続いた「いざなぎ景気」の後押しを受け、日本人の海外渡航は1966年の21万4000人から、1969年には49万2000人に増加。観光での渡航者数が業務渡航者数を上回るようになった。

 

当時から体験型ツアーにも注目 

0122_041.jpg 1970年3月3日、ホノルル国際空港に新サテライトターミナルがオープン。その開港式に飛んで来たのは、「ジャンボ」の愛称にふさわしいボーイングB747型機だ。ジャンボの乗客数は350人以上で、比較的安価な大量輸送ができるようになった。同時に日本人の海外旅行も大きな変化を迎え、ハワイは「貯金をすれば行ける外国」に。1970年代初頭のジャルパック商品を例に取ると、「ワイキキ7日間」のツアーで14万6000円、ハワイ3島(オアフ、カウアイ、ハワイ島)巡りで22万7000円程度。70年代前半には平均月収も約12万円程度まで上昇しており、「手の届くハワイ」へ変化しつつある。

 1970年代に発行された旅行ガイドブックを見ると、ワイキキビーチやダイヤモンド・ヘッド、ポリネシア文化センターなど、著名な観光スポットが中心に紹介されているが、ハロナの潮吹き岩や、ハナウマ湾の静かなビーチの良さなど、大自然の素晴らしさにも触れられている。イリカイ・ホテルのナイトクラブ「トップ・オブ・イリカイ」から眺める夜景のすばらしさや、リージェント・ホテルやシネラマ・リーフホテルなどのディスコなどナイトライフの楽しみも紹介。他の島ではビッグ・アイランド(ハワイ島)の「火山見物」が大きな比重を占めており、カラパナの黒砂海岸などにも比較的詳しく言及されている。

 興味深いのは、ゴルフやサーフィン、釣りなどと並び、ヒロでレイ作りを体験する現地ツアー。今、人気のある「体験」型の旅にもすでに目が向けられていたことがうかがわれる。また、カウアイ島やマウイ島でも、その自然の美しさが強調されており、ハワイへの旅は「大自然の楽園」を求めてのものであることが感じられる。

 

新婚旅行、ショッピング天国、ゴルフが浮上 

0122_051.jpg ハワイへの観光客数は1972年に200万人を突破。軍事、砂糖、パイナップルなどの産業を抜いて観光がハワイの第一産業となった。76年には300万人、82年に400万人、86年に500万人と加速度的に増加。日本人観光客の数も1980年代に急増し、1990年には年間で約700万人のうち約200万人が日本からの観光客となり、ハワイ州にとって日本市場の重要性はきわめて大きいものとなっていく。

 1973年、ワタベ衣装店(現ワタベウェディング)は、ホノルルに海外1号店をオープンし、日本人の海外挙式の開拓を開始。1982年には沖縄や九州南部を抜いて、ハワイは「新婚旅行ディスティネーション」のトップに立った。団体ツアーが主流であったものの、1979年には『地球の歩き方』など個人旅行を中心にしたガイドブックが出版され、旅行形態にも変化が見られるようになる。マウイ島のカアナパリビーチのように、日本人の少ない贅沢なリゾート地を「新婚旅行向き」と紹介したり、カウアイ島のシダの洞窟にある野外結婚式場を「ハワイアン・ウエディングの最高のもの」と紹介した本も出てきている。

 1986年から1991年にかけてのバブル景気の時期には、「ショッピング天国」としての側面が強くなっていく。この時期に発行されたガイドブックにはホノルルのショッピングモール、特に高級ブランドのブティックや免税店の詳しい情報が掲載されている。また、「ゴルフ・デスティネーション」としての人気が広まったのもこの頃。1980年代の国内のグリーンフィーは、一回のプレイで1人4万円近くかかることも珍しくなかったが、ハワイのゴルフ場は送迎付きでも100ドル以下で、ダイナミックな景観の中でプレイを楽しめる。こうした旅行を楽しみながら日本人観光客は増加しつづけ、ついに1997年、220万人に達し、ブームはピークを迎えた。

 

今週のハワイ50選

ハワイアンミュージック(ハワイ全島)
ダイヤモンド・ヘッド(オアフ島)
ハナウマ湾(オアフ島)
ヒロ(ビッグ・アイランド)
カアナパリビーチ(マウイ島)
シダの洞窟(カウアイ島)