オーストラリアの歴史
オーストラリア大陸には、約6万年前から先住民アボリジニが居住していたといわれている。氷河期時代に東南アジアから移住してきたとされる先住民アボリジニは、独自の文化や生活を営んできた。18世紀ころにヨーロッパ人の移住が始まり、植民地としての歴史を歩むことになる。そして連邦政府が成立し、「国家」が誕生。以来、移民を受け入れながら多民族・多文化国家を形成し、「国家」としての発展を続けている。
建国以前
先住民アボリジニ
オーストラリアの先住民アボリジニは、約6万年前、第4氷河期の中頃に東南アジアから移住してきたといわれている。アボリジニは、オーストラリア全土で狩猟、採取による生活を営んでいた。自然からの恵みが生活の糧となっていたアボリジニは、独特の世界観を作り上げていった。その中心となるのが、天地創造の神話「ドリームタイム」。人間も自然の一部として認識し、動物や植物などと一体であるという精神世界を反映したものだ。自然との共存を図るため、さまざまな知恵や生活習慣を生み出していった。文字を持たなかった彼らは、それらを歌や踊り、ロックアート(壁画)などで表現し、文化や伝統を継承し続けている。
ヨーロッパ人が入植するかなり以前から、北部ケープ・タウンを訪れたパプア系民族との交流を皮切りに、北部に居住するアボリジニはインドネシア人や中国人との対外交易を行っている。
ヨーロッパ人との出会い
最初にオーストラリア大陸に接触したヨーロッパ人はポルトガル人で、1520年代に大陸東部を探検したとされる。当時はヨーロッパで珍重された香辛料などを求める大航海時代だったが、オーストラリアには価値ある産物を見出すことができず、それほど注目を浴びることはなかった。1606年には、スペイン人のトレスがオーストラリアとパプア・ニューギニアの間の海峡、現トレス海峡を航海。オランダの探検家はタスマニア島を発見し、オーストラリア大陸の北と西の海岸線を地図に起こした。1688年にはイギリス人探検家ウイリアム・ダンピアが、北西海岸に上陸。そして、1770年にはキャプテン・クックがエンデバー号で東海岸に上陸し、イギリス領として宣言した。
ヨーロッパ人の入植
1770年4月、シドニー湾岸近くに上陸したキャプテン・クックはさまざまな植物を採取し、植物(Botany)にちなんで上陸地をボタニー湾と命名。独立戦争によって、アメリカの流刑地を失ったイギリスは、これに替わる新しい流刑植民地をオーストラリアに求めた。1788年1月には、後にニュー・サウス・ウェールズ州の初代総督になったアーサー・フィリップ率いる11隻の第一船団が、シドニーのボタニー湾に到着。さらに数キロ北上したポート・ジャクソンに植民地を建設し、その後、大都市シドニーに発展した。ボタニー湾に上陸した1月26日は、現在もオーストラリア・デーとして祝日となっている。
その後、約80年間で、イギリスから約16万人の囚人がオーストラリア大陸に渡った。一般の植民者は囚人よりもはるかに多く、羊毛産業と19世紀半ばのゴールド・ラッシュで植民に拍車がかかった。
植民地時代
1700年代後半に東海岸から始まった植民地化は徐々に西へ移行し、1829年には西オーストラリアも正式にイギリスの領有と宣言された。その後、流刑者ではなく純粋な開拓民による植民地移住が認められ、1836年にはマレー川河口に南オーストラリア植民地が誕生した。各地に建設された植民地が成熟するにつれ、イギリスとの関係も変化していった。すでに羊毛業や鉄鉱石の採掘などで経済が安定し、各植民地が独自の発展を遂げていたからである。そこでイギリス政府は各植民地に、イギリス式の憲法や議会制度を導入し、自治権を与えていった。
19世紀半ばにバサーストで発見された砂金をきっかけに、ゴールド・ラッシュが始まる。オーストラリアには、世界各地から一攫千金を夢見る移民が押しかけ、人口は1850年の40万人から1860年には114万人と急増。
また、さまざまな文化・技能などが流入した。ゴールド・ラッシュで急激に人口が増えたことから一時混乱したが、各植民地は政治、経済とも安定を取り戻していく。それに伴い、貿易や国防の面などから植民地間の統一気運が高まってきた。一極集中の中央政権ではなく、各植民地が独自の自治権を発揮できる連邦制への道を探ることになる。
建国以後
国家の誕生
1891年、シドニーで連邦政府結成のための会議が初めて開かれた。現在の州の核となる6つの植民地が集まって、さまざまな問題解決を図り、議論を重ねていった。10年の歳月をかけて、国家の機軸となる憲法草案をまとめ、それをイギリス政府が承認。1901年に「オーストラリア連邦」が誕生した。誕生当初は6州だったが、その後、北部地域(ノーザン・テリトリー)が自治を認められて準州になり、首都特別地域も制定された。
首都の建設はシドニーと当時臨時首都であったメルボルンの間とされ、ニュー・サウス・ウェールズ州内に首都機能を建築する目的で制定されたのが首都特別地域。連邦政府の中枢機関を集結させるために、1927年に計画都市として首都キャンベラが建設された。
第一次世界大戦への参加
連邦国家が成立して間もなくの1914年、イギリスがドイツに宣戦布告をし、第一次世界大戦が勃発。イギリスと深い関係を持つオーストラリアも参戦することになる。ニュージーランド軍とともに結成されたアンザック軍団には、オーストラリアから約40万人が出征し、約6万人が帰らぬ人となった。大きな犠牲を払ったオーストラリアは、この後、国際連盟への加入が認められ、国際社会での地位を確立していった。第二次世界大戦への参加
第一次世界大戦後の混沌とした社会情勢が落ち着きを見せ始めたころ、今度は第二次世界大戦が始まった。オーストラリアは連合軍の勝利に貢献したが、日本軍から本土を襲撃された。ノーザン・テリトリーのダーウィン、西オーストラリアのブルームは空襲を受け、シドニーやニュー・キャッスルは外洋から砲撃を浴びた。
シドニー郊外のカウラには、日本兵の捕虜が捨て身の大脱走を行い多くの兵士が命を落とした痛ましい歴史がある。戦後、市民や生存者の尽力で、海外で初めての日本人戦没者墓地や日本庭園、世界平和の鐘などがカウラに整備された。今では日豪友好を象徴する街になっており、地元ボランティアの手で日本兵の墓地などが手厚く守られている。
戦後の復興と多民族国家
第二次世界大戦が終結すると、オーストラリアは好景気を迎えた。小麦や羊毛などの第一次産業の好調に加え、鉄鉱石などの資源、製造業でも業績を上げていった。1950年代は、鉱物資源の開発や水力発電事業など、国家的なプロジェクトが行われた。また、社会保障の拡充と通信の発達は目覚しく、この時期にテレビも登場した。スポーツ分野でもオーストラリアは注目された。1956年、南半球で初めてのオリンピックがメルボルンで開催され、国際的に知名度がアップした。
1960年代に入ってくると、イギリスの影響が弱まり、アメリカやアジアなど、広く世界と関わりを持つようになってきた。戦後、移民政策がさらに推進され、さまざまな国の出身者が移住してきた。先住民や移民を含めて、すべての国民が平等であることを政府が公約。現在では、多民族によるユニークな文化を形成する国家となっている。